第四話 海外鋳造工場の設立に携わって N. K生 (65歳)


 南米にある鋳造工場に赴任の辞令を受けたのは、いまから16年前のことで、その当時、私は本社の生産技術部のスタッフでした。

 それに遡ること28年前・・・そう、それは四十三、四年も前のことになりますが・・・私は大学で鋳造学を学んでいました。卒論も、たしか「キュポラのコークス粒度が及ぼす影響」といったテーマで、会社に入ってからも溶解、造形等の現場を歴任して、鋳造技術、製造工程の分野一筋に生きてきたので、一応鋳物を造ることに関してはプロの自負を持っていました。

 日本の国内に新たに大きな工場を設立するプランが持ち上がり、現場畑を十年ほど過ごした経験からか臨時建設部に配属されました。そこでは電弧炉溶解と製造工程の設立立案を担当し、引き続いてその新工場の現場の管理者として勤務することになったのです。

 その工場が軌道に乗り、別の国内の工場に転勤し、またもや同じ鋳造関係の仕事につきました。まさに、その延長上に先に述べた南米行きが待っていたのです。日本の裏側に位置する地での任務は、いまひとつ、うまくいっていない現地の鋳造工場の体質改善が目的でありました。

 鋳造工場で大切なことの一つは良質な材料を調達することです。向こうでは自薦他薦の商社がサンプルを持ちこんできます。しかし注文通りの品質のものを安定的に購入することは望めないのです。そのため、常に現場まで出向いていって自分の目で現物を確認する必要があり、それでもまだ全面的に信頼するには足りないのです。

 それにもまして作業者の教育には苦労しました。なにしろ新陳代謝が激しく入れ替わり立ち代わりといった状態です。出入りの激しい連中にマニュアルを守らせる事は至難の技と言えましょう。

 検査の基準も日本にいるときと違っていて、砂入り、ブローホールなどの欠陥に比較的寛大で、グラインダーの仕上げ程度も私の目から見ると「難あり」と思われるのです。ようするに不良の基準が甘いのです。このあたりを指摘すると思わぬ反感と反発を受けたのです。

 しかし、日本に出荷するには、これではOKとはなりません。しかも「不良を造ってもたいして問題にはならない」という受け取り方に寄りかかっていては技術の向上にはなりません。私が意地悪く彼らをイジメているのではない、ましてや日本にだけイイモノを送り込もうというケチな感覚などではないことを理解してほしかったのです。

 たしかに、アメリカには、直接影響を及ぼさない程度の不良は良品とするという考え方があり、それなりに合理的な考えだと思うのです。単にコスト優先だけではない考え方があってのことなのです。都合の良い部分だけを安直に真似ることは、工業の世界だけでなく、風俗習慣総ての事に一考を要することだと思うのですが・・・

 約、四年の勤務の後に本社に戻り、そこでは今までの経験を生かし海外調達部の主幹として仕事に従事することになりましたが、落ち着く間もなく今度は東南アジアの大型新工場の建設プロジェクトに取り掛かったのです。その時私は五十も半ばに達しようとしていました。

 私の役目は日本側の総責任者の立場です。ご存知の通り現地会社は、資本金の関係でその国の人が社長となるのが決まりであります。

 とはいえ、今までの使われる側が、使う立場と代わり、それなりの期待感と充足感はあったのです。しかしその感覚も最初のうちだけでした。

 日本では意識していなかったことが二つありました。その一つは経営者が系列化されていることであり少数の財閥系に支配されていることです。もう一つは結構はっきりとした階級制度が存在していることでした。

 特に作業者とスタッフの隔壁は、私にとって違和感と障害にもなっていきました。南米でも経験したように、作業者は入ったと思うとすぐ辞めていくのです。とてもじゃないがベテランと呼べる者はあまり居ません。

 しかしそのことより、私が手を焼いたのはスタッフの側です。一応結構な大学を卒業したエリート集団で、縁故に頼った人たちが多く、これが事務所の机に座ったきり、一向に現場に足を踏み入れようとはしないのです。そんな管理体制では問題が起きても原因の追求を期待することは難しく、「現場に入って、実際の状況をよく調べてみろ」という私の叫びは無視され、社長も、そのように連中と何ら変わる処はなく、家柄のよさのためか評論家ではあるが実践的とはいえない人物なのです。従って当然、私の言葉は理解されません。

 それは例えば、レストランでスプーンを落としても、エリートたるものは自分で拾わないものらしく、そのような行動をすれば自分のステータスを貶めると考えているかのように思えるのです。

 しかし、どんなに彼等のプライドが高かろうが、私のやり方に文句をつけようが、実際に製品が出来なければ何にもなりません。このような状態の中で、私がどのように対応していったか、そのことはいずれ機会があれば述べてみたいと思っています。私の妻も家庭の中なりにいろいろな苦労をしたようです。私よりもむしろ、この国の人々との接触があったらしく、私よりも現地の言葉がうまくしゃべれるようになったことは驚きでした。

 愚痴ついでに、この地での苦労話を付け加えさせていただきましょう。それは南米で受けた洗礼と同じく、鋳造材料の問題でした。

 なかでも鋳物砂は特に酷かったと記憶しています。元来、鋳物砂は、硬い石英の非結晶体であり、これは珪砂と呼ばれ、それにベントナイトなど粘土系の粘結材やスターチ系の澱粉質などを加え、更に水を加えて混練し造形します。

 この地の鋳物砂として用いる珪砂は、内部に細かい亀裂が入っていて、練り返し使用すると、更に細かく砕け細粒化してしまうのです。簡単に割れて、崩れ、微紛化する。6号珪砂がたちまち7号になりPANとなってしまうのです。そのため、鋳物砂の水分は高くなり、通気性は極端に悪化し、砂に基因する不良が続発するのです。

 そういえば、こんなこともありました。業者が海水に濡れた砂を納入してくるので文句を言いますと、「どうせ水を加えるのではないか、最初から水が入っていたって何の不都合があるのだ」と食って掛かるといった始末です。それは管理以前の問題であり、しかも真水と海水の際も意に介さないという凄まじさだったのです。

 それに対応する鋳材屋もまた問題がありました。たとえば砂に配合するα澱粉を依頼しても、平気でβ澱粉を持ってくるのです。そのためベタベタな餅のような砂となってしまう。αとβの違いを分かっていないのです。

 ひどく長く、辛い三年を超える年月が過ぎて、やっと帰国しました。

 しかし、こうしてその当時の日々を振り返ってみると、なぜか楽しかった思い出だけが頭をよぎるのです。そして性懲りもなく、また行ってみたい気分になってくるから不思議です。

 やがて、私は日本に戻り、関連会社の管理に関わり、そして定年を迎えました。

 今になって振り返って見た時に、この苦労の数々も。もしかして日本の経済の発展の一翼を担ったのではないか・・・と思いたい・・・いや、そう強く信じるしかないのです。